自然豊かな長野にてインターネットビジネスを展開!

November 29th, 2007

ĹÌ¤éȯ¿®株式会社新生の久保田謙三です。まずは、自己紹介させていただきます。

■NY→東京→長野

私の小さい頃からの夢は、アメリカで暮らすことでした。そのため、中学の頃から旺文社カセットL&Lで英会話を習い、大学は商学部を選択、大学時代はESSで英語のディベートを勉強してきました。82年に大学を卒業し、アルプス電気に入社しました。本社貿易部に配属され2年、その後アメリカの現地販売会社に3年間出向したのち、退社しました。

アルプス電気で過ごした5年間、特にアメリカでの3年間は本当に忙しい毎日でした。平日は朝9時から深夜0時頃まで毎日働き、週末は衣類の洗濯と買い物時間以外は事務所で書類の整理をしていました。

アルプス電気を退職し、リクルート人材センター(RJC)に転職の相談に行った際、林清三さん・有馬啓介さんに誘っていただき、RJCに入社しました。

RJCでは経営企画室に在籍し、当時カットオーバーしたばかりの販売管理システムの運用を担当、その後、一般会計、支払管理などパッケージを導入、求人・登録者のマッチングシステムの企画?開発?運用を担当しました。

RJCには、大手企業で経験を積んだ50代から60代の転職相談カウンセラーが大勢おり、カウンセラーにも使ってもらえるシステムにするためかなりの時間を費やしました。求人・求職者のマッチングシステムは、当初ほとんどのカウンセラーが反対、一人づつ話をしながら賛成者を増やしてゆくのは大変な作業でしたが、貴重な経験になりました。

RJCには6年間お世話になり、子供が生まれる時、長野の会社に転職しました。私は出身が千葉県なので長野に行くというのは、今の言葉でいう「Iターン」というやつです。

■長野発、日本の中小企業を活性化したい

長野に来てもうすぐ15年になります。長野は、西には北アルプスの山々、北には北信五岳と呼ばれる飯縄山、戸隠山、黒姫山、妙高山、斑尾山があり、東には志賀高原から菅平に続く山並みが見える素晴らしい自然環境があります。このような自然環境で2人の子供を育てられたことは、親にとっても子供にとってもよかったと思います。あのまま東京で生活していたら、親子の関係も今とは違ったものになっていたのではないかと思います。

現在、私はボイスメール、インターネットFAX、WEB会議サービスなどの通信サービスをASPで法人向けに提供しています。

2年前までは、企業の経営者に会って営業するというやり方を主体にしていましたが、現在は新規申し込みの9割以上はインターネット経由の申し込みです。お客様がうちのサイトをネットで探し(アポTELやリストアップなし)、うちのサービス内容を自ら調べ(営業訪問、商品説明なし)、申し込みフォームでサービスを申し込んで(プレゼンやクロージングなし)くれます。

インターネットのおかげで、仕事のスタイルが大きく変わりました。お客様との打ち合わせがEメールやTV会議などで代替され、直接会って打ち合わせる回数が減らせるのであれば、都市に住む必然性が薄れてくると思います。現に、社員3?4名のあるシステム開発会社は、東京から会社ごと長野県に引っ越してきました。自然に囲まれた環境で季節の移り変わりを実感できる田舎暮らし、もし興味のある方がいらっしゃいましたら、ご連絡ください。

RJCで担当したシステム開発の仕事、そしてリクルート流の組織マネジメントの考え方が今の仕事で生かされています。小規模の自営業者、SOHOの皆さんに喜んでいただける留守電、インターネットFAXが現在の主力サービスですが、今後はWEBマーケティング、経理など業務システムの提案、などSOHO向けのサービスを拡充してゆきたいと考えています。

リクルート出身の皆さん方の頑張りが、大きな励みになっております。これからもよろしくお願いいたします。

次のブログは、グローバルミックスの勝見さんにお願いします。お目にかかったことはありませんが、海外のカジノオペレーターとのビジネスなんてダイナミックですね。どんなお仕事なのか興味があります。ぜひ、お話を聞かせて下さい。

人生を決めた就職情報センター(SJC)出向

October 5th, 2007

博展の田口徳久です。同期の阿久津さんからのバトンタッチです。
縁とは本当に不思議なものです。
同期とはいえそこまでの付合いで無かった阿久津さんと深い仲?になるきっかけは、4年前のメールでした。たまたまお互い近くで働いていることが分かり食事をすることに。そこで彼が近々独立すること聞き、是非わが社が記念すべき第1号クライアントに、と思いました。(残念ながらそれは叶わず第2号でした)

その後は人事制度をお任せするとともに、上場に向けてのアドバイザーになっていただきました。「いつかは株式公開を」という気持ちは持ち続けてはいましたが、何をどうしたら、何から始めたら、誰に相談したら・・・・?と解らないことばかりでした。そこへ気の置けない仲間であるリクルートOBが現れた訳ですから、これは心強かった。変な遠慮やかっこつけも要らない。基本的なことで普通だったら恥ずかしくて聞けないようなことまで、とにかく本音で話し合えることがスピードアップにつながっています。
阿久津さんには現在は監査役をお願いしております。
これからもよろしくお願いしますね。

私は葛飾の堀切に生まれました。11歳の時に父が独立してディスプレイ業(と言ってもご理解しにくいでしょう。モーターショーやゲームショーなどのブースやイベントの空間を企画・デザイン・製作する仕事です)の会社を設立しました。父が徹夜で仕事をしている姿をよく見たものでしたが、当時はまさか自分が後を継ぐとは思ってもいませんでした。

大学4年の時に2時間で2500円というモニターアルバイトの葉書に釣られて応募したのが、リクルートを知るきっかけでした。当時この2500円は魅力でしたね。
その後、そんなこんなで採用開発部で営業のバイトをすることになりました。
初めての会社・社会人との接触・・・。
いやー、ぶったまげました。
皆さんキラキラと働いている。
こんなに楽しそうに働ける会社があるのか!
しかし、何か変なとこもあるぞ。
1日だけの研修で、しかも、資料を自分で読むだけで明日から新規テレアポしろ、と言われた。
俺なんかがリクルートをかたって電話していいのか?
いい加減だけど大丈夫か?
とにかく鮮烈な印象でした。
仕事内容などはどうでもいい、とにかくここで働きたい、そう決めたのでした。

配属は思いもよらぬ「就職情報センター(SJC)出向」。
入社前に配属希望を聞かれたとき、確か
「管理セクションと就職情報センター以外であればどこでも・・・」
と答えたはずだったのに・・・・、ああ、やっぱりこのいい加減さよ。
しかも、いきなり出向です。
当時、出向ショック、というフレーズがはやりました。

ところが人生は解らないものです。今となってみればこのSJC出向が私の人生を決めた、と言っても過言ではありません。
SJCでの配属は、この年の春に創刊され、マスコミの注目を集めていた、
あの「とらばーゆ課」でした。
課長は多田さん、先輩が名付け親の尾野さんです。
いやー、鍛えられました。
1年目からメンバーを持たされ、マネジメントの真似ごとをさせてもらえました。
目標はQごとに倍以上いただきました。
「こんなのできっこないよー」という目標も、
「目標が結果を導くのだ」ということを教わりました。
これは今でも私に染み着いていて、仕事の基本的なやり方になっています。

また、SJCは良い意味で自由があり、社員の仲もとても良くて楽しかった。
叱られた記憶もあまりなく、無我夢中で仕事に集中し、土日もメンバーと共に過ごす、なんて日々でした。当時の同僚の皆さんに感謝感謝です。

4年目の初めに母が脳出血で倒れ、家の事情で博展に入ることになりました。
当時の社員は5名で、しかも、1番若くて41歳、上は70歳で平均は50歳を超えていました。そこへ弱冠27歳の若造が2代目として入ってきたわけです。
とにかく1番熱心に長い時間がむしゃらに働くことにしました。
汚い仕事や危険な現場を積極的に買って出ました。
気がつくと社員は父より私を頼ってきてくれていました。

当時から、「業界ナンバーワンを目指す」と公言していました。
そのためには優れた人材を採用して教育しなくてはなりません。
B-ingで何度も中途採用募集をしましたが、最初はなかなかうまく行きませんでした。4,5年してようやく10人を超えるまでになりました。
ここで1回目の勝負に出ます。人材はやはり新卒が基本だ、と高校卒の新卒採用を始めたのです。しかも、少人数では意味がないと思っていたので、社員数10名、しかも、平均年齢50歳以上の会社になんと7名も18歳の新卒社員を入社させました。
なんといびつな年齢構成の会社でしょう。
しかし、このおかげで凄い発見をしました。18歳の新人でも30年以上の経験者よりも優れているところを見つけたのです。明るさ、元気、スピードはもちろん、顧客に対しての印象は格段の差がつきました。2年もすると技術的にも追い越し始め、先輩社員の仕事を奪うまでに成長して行ったのです。

2回目の勝負はその5年後の学卒者新卒採用のスタートです。社員も20数人になっていましたが、「こんな会社に学卒者が来てくれるのか?」という不安と「これを機に業界1強い営業部隊を作るんだ」という野望で胸はいっぱいでした。
学卒1期生は6名。5名が今も残り、取締役を任せている者もいます。

この2回の勝負で重要だったことは、
「採用には多くのお金とたくさんの時間が不可欠」
という基本を経験的に理解していたことでした。
ですから、企業規模からは異常なほどのコストをかけ、学生には手厚いフォローをすることができました。
この基本をその後も忘れることなく、熱心に採用を続け、ある期間は現社員数の3分の1以上の新卒を入社させました。仕事があるから採用する、のではなく、優秀な人材を採用して仕事を取ってくる、と考えたのですが、人材の質の高さが幸いして結果を残せてきました。
現在は11期生25名の内定式を終え、12期の採用がまさにスタートしたところです。

もちろん、その都度現役リクルート営業マンの力を借り、また、たくさんの知恵をいただきました。我社の発展は人材の大切さ、重要さを教えてくれたリクルートのおかげ、と言っても過言ではないのです。
リクルートに入社して良かった、と心から思います。

現在は展示会やイベントの仕事が中心ですが、今後は現在の仕事を切り口にお客様の広告戦略や広報活動をトータルで企画立案し、しかも、実行までお手伝いする会社を目指しています。博展ではこれを、
「コミュニーケーションデザイン」
と名付け、コミュニケーションデザイン業を世の中に定着させ、そのナンバーワン企業になる、ことをミッションとして活動して参ります。
これからも皆様のご指導、ご協力よろしくお願いいたします。

次のバトンは、株式会社ネクストの井上高志さんにお渡ししたいと思います。
博展は今、上場に向けて四苦八苦している最中ですので、昨年12月にマザーズに上場された時の苦労話を聞かせていただければと思っています。
よろしくお願いします。

社名のように「ココブリーズ」したい!

September 10th, 2007

ココブリーズの阿久津です。村林さんにはお会いしたことがないかと思いますが、「縁」を感じていた矢先のご指名でした。
実は私の実家が森下で、村林さんのお店から徒歩10分の位置にあります。神明幼稚園→深川小→深川一中と、結婚した27才まで地元で生活していました。リクルートに新卒入社した年に都営新宿線が開通し、5年間は森下から通っていました。父は左官業を営んでいましたが、長男の私は継ぐタイミングを逸して現在に至っています。ただ下町の職人の血筋は受け継いでおり、筋が通らない事があれば「てやんで?」と社長であっても苦言を呈しています。
今度お店に行きますね。

■上場について(村林さんからテーマをいただきました)

上場しようとする強い意志がなければ上場はできない
上場は手段であり目的ではない
上場を目指すことによって組織は強くなる
「会社は人が命」であることは、リクルートからよ〜く学びました。
究極は「採用」であると思っています。リクルートでは入社して11期連続新卒採用を担当していましたが、当時はビックリする位のお金とマンパワーをかけて、会社の社格からすると「分不相応」な採用をしていました。それが強さだと思います。
ただ規模が大きくなると、分業して組織プレーが求められます。組織の効率のいい運営には「リーダーシップ」が必要ですが、それを支えるものが上場基準にあるような「会社のルール」です。経営理念、組織体制、事業計画、役割・権限と責任の明確化、人事制度等があげられます。また社会に対する影響力が強くなってきますので、コンプライアンス(遵法精神、道徳心)も重要です。
私は転職するたびに「人事制度」を構築してきましたが、上記の項目はすべて関連しており、一つでも欠けると人事制度は「絵に描いた餅」になってしまいます。運用できる人事制度(組織の活性化)を構築するため、上場業務を手段として人事コンサルしているのが私の本音です。
「串焼 もつ焼 焼鳥 むらばやし」が上場するには、「出資して応援しよう」(ほとんどは株価の値上がり期待)という方々がいっぱいいることであり、その魅力が必要です。また資金があればある程、投資して事業が拡大していく(利益が上がり株価が上がっていく)要素も必要です。
今度、刺身でも食べられる「もつ」をつまみに「むらハイ」を飲みながら話しましょう。

■リクルート事件がなかったら、リクルートはなくなっていた?

リクルートの後半は、今はなき「ファーストファイナンス」に在籍していました。昨年「FF解散パーティー」で多くのOB・OGが集まりましたが、公認会計士、税理士、社労士、司法書士、不動産鑑定士、CFPの資格者がすべて複数おり、宅地建物取引主任者においてはほぼ全員が取得している集団です。リクルート本体より有資格者は多いと思いますが、それでも「バブルには勝てなかった」ことが残念です。
そのバブル絶頂期に「リクルート事件」がありました。
株がらみの事件がある度に今も「リクルート事件」が報道され、非常に残念な思いです。
当時、コスモスはガンガン土地を仕入れ、FFもガンガン地上げ資金を融資していました。
さすがに事件後は金融機関からの融資がストップし、苦労して営業してきた取引ができなくなり、目指していた「上場」も延期され、悔しい思いをしていたことを思い出します。
ところがその2年後には土地相場が崩れてきて、「バブル経済崩壊」となった訳です。
もし「リクルート事件」がなかったら金融機関も融資を続けていたでしょうから、FFだけでも融資残高は「1兆」いっていたと思います。たぶんコスモスとFFの2社の不良資産・不良債権だけで2兆円は超えていたでしょう。他にRBMもありましたし。
平成3年をピークに、翌年から賞与半分、役職手当カット、昇給なしと、今はあたり前になってきましたが、当時は非常にショックでした。
ただ「リクルート事件がなかったら」と考えると、ぞ?っとします。

■私の原点

父が左官業を営んでいたことは先に触れましたが、長男である私は「当然家業を継ぐ」ものだと思い込んでいました。小学校6年から長期の休みの半分は、修行のため仕事を手伝っていました。当時の深川一中ではサラリーマンの子供はほとんどいなかったため、中ニの3学期には進路アンケートで「商業高校・工業高校・普通科・就職」とあり、当然「就職(家業を継ぐ)」と書いて提出しました。担任の先生が臨時家庭訪問してくれまして、両親の前で「左官業も経営なので、技術だけでなく経営を学ぶために高校に行ってください」と指導され、それにより進学が決まりました。
初めて聞いた「経営」という響きに興味が湧き、「大学まで行って極めよう」とまで思いが馳せ、現在に至っています。「リクルートに入社する」と親に報告した時は、「てめえ、家は継がないのか!」と親父に怒鳴られ、1年間は口もきいてくれませんでした。入社2年目の夏のボーナスで、家族を誘って「新橋亭」に行った時に、ついでに新築のG8を案内したところ「こんなに大きな会社だったんだ」とやっと賛成してくれました。ビルの力は大きいですね。私の原点はこんなところにあります。
私の娘も親の血を継いでしまったのか、中高一貫の進学校に通っているのですが、「ドラム」を極めたいと専門学校に早々決めました。(学年で唯一の専門学校行きです)
「ドラムス娘」と呼んでいます。

次は私の同期である株式会社博展の田口さんにお願いします。
葛飾の大工の息子が家業を継ぎ、今や上場を目指すまでの会社に成長させました。
3年前までは、なんと経常利益の1.5倍の額を採用と教育につぎ込んでいました。
(今も採用費・教育費は右肩上がり、経常利益はうなぎ上りで比率は下がりました)
「人」に対する思いは人一倍ある人間です。

リクルートから、串焼き屋二代目経営者へ

August 17th, 2007

 こんにちは、串焼き、もつ焼き、焼き鳥むらばやしの村林です。吉井さん、ご指名ありがとうございます。
今回、吉井さんから、ご指名頂いて大変光栄でかつ緊張しております。今回のEX-RECRUITを全て拝見しまして、大変素晴らしい方々のなかで私で良いのかと思ってしまいました。

子供の頃…
子供の頃から野球一筋でした。
日大一高、帝京、二松学舎、東亜学園と野球のセレクションにパスし、将来、島岡監督のいる明治大学の六大学野球。日本大学、東海大学の首都大学リーグで活躍し、社会人野球を目指し、将来野球の指導者を夢見ておりました。日大一高硬式野球部在学中、高二の秋に、練習中イレギュラーバウンドを左目に受け網膜剥離をし、高校野球の選手としての夢は途絶えてしまいましたが、18歳の少年としては夢を諦める事ができず、目の治療と練習を積み、日大硬式野球に選手として復帰する事を目指しましたが、視力、動体視力が思うように回復せず、選手としての活動を断念した時に出会ったのが、リクルートでした。

リクルートの思い出…
G8の面接に向った所、大会議場いっぱいの受験者を目の当たりにし、二十歳の私にはとても衝撃的でした。当日、筆記試験以外、面接を3回〜4回程受けたと思います。面接の回数を重ねるたびに、1人減り、2人減り、最後に後の上司になる向井博さんの面接があり、2日後には、A職として入社しました。
一歩、G84Fの採開のフロアに入った時にも、とても凄まじいエネルギーと活気に圧倒されこれまた衝撃!!

3課マネージャー向井さんから一言
「お前を採ったのは、以前のリクルートにあった熱意、誠意、バイタリティーの3つがある。またこの部署で社会人経験もなく、君のような経歴の青年の採用は、初めてであり、テストケースだ。君がこの会社で成功すれば君のような経歴の人間を今後採用するが、ダメだったら君のようなタイプの人間は、採用しなくなる。君が成功するかどうかで、今後の採用が変わるから頑張れ!!」と言われ、その日の午後から帝国要覧一冊をドンと渡され即、営業活動に入りました。隣の久保さんにアポとりトークを書いて教えてもらいアポとりの日々。

01の加藤茂博さんからは社長アポ、トップアプローチしかするなと、激を飛ばされ朝8時前から昼も抜き社長の帰社する夜の8時、9時まで一日300〜400件のアポとりに必死でした。全く受注が取れなかった為、会社の外にも出られない日々が1ヶ月半程続き、やっと初受注。G84Fフロア帰ってきたときに全員から大きな拍手。一番最初に部長の田畑千秋さんの大きな手で「ナイスバーディー!おめでとう!!」の握手に感激。3課営業、制作、庶務。1課マネージャー中村恒一さん、2課のマネージャー渡辺さん、01村井満さんなど採開4Fフロア皆様からの祝福にこれまた感激。隣の広企大友さんを含めた広企の方々。企画室他、営業所の皆様からの祝福のお電話、伝言。そして、館内放送での「村林さん初受注!!」その時の達成感は、今でも忘れる事ができません。これで、燃えに燃え、勢いにのり月間目標達成。経目達成。月間新規最多販売、早期達成賞、採開Q最多販売まで頂く事ができました。

その後、01加藤茂博さんとイギリス系のベアリング証券。アメリカ系のマニファクチャラースハノーバー銀行や外資系企業へのアプローチ攻略、楽しかったです。
加藤さんが移動し採事から01小路剛彦さんには、プライベート管理から営業指導に至るまで改めて徹底的な指導。厳しかった!!
その後、小路さんが移動し、01の角田寛明さんとの出会い、角田さんにはリクルート退職後に戻って来いとあたたかい声もかけて頂きました。お客様リクルートの方々には、本当にお世話になりリクルートという大学を卒業させて頂いた思いで今もいっぱいです。改めて、この場を借りて私を育てて頂いてありがとうございます。

退職後…
パナソニックの社員教育、生産性向上の業務改革
中堅中小企業の人事評価制度などの人事面のコンサルティング
採用セミナーの講師
社員教育の指導員
北海道のカレーパン屋さんのコンサルティング
熱海の旅館のコンサルティング
などをさせて頂きました。

現在…
父の死去により串焼き、もつ焼きむらばやしの二代目として現在に至ります。25席程の小さなお店ですが、妻と18歳〜40歳までの優秀なスタッフ4人に囲まれ、新しい夢にむかって、みんなと頑張っております。
下町の両国の小さな串焼き屋ですがお近くにお越しの際は、是非お立ち寄りください。スタッフ一同心よりお待ちしております。

次のバトンは、(株)ココブリーズ代表取締役社長 阿久津 操さんにお渡ししたいと思います。
個人的な夢であり関心事ではありますが、小さな飲食店が上場していったケースについて知りたいです。可能な範囲でぜひ教えてください。お忙しいことと思いますが、よろしくお願い致します。

「企業内起業家」という新しい起業のかたち

July 10th, 2007

こんにちは。インターウォーズの吉井です。
五十嵐さん、ご指名どうもありがとうございます。

リクルートを離れて、早いもので13年目を迎えました。
リクルート時代の思い出は、ありすぎで一言では伝えられない!
というのが正直なところです。
よく仕事をし、よく酒を飲みながら、共有語の仲間達と語り合った毎日でした。
当時の仲間と共に過ごした時空や、多くの経営者と出会えたことは、
今の私にとって、本当にかけがえのない財産になっています。
また、高祖さんのブログにも書かれていましたが
社訓である「自ら機会をつくり出し、機会によって自らを変えよ」
という言葉は今も私の支えであり、年々育っています。

■インキュベーション事業

バブル崩壊の頃、人材を採用する企業が激減し、
リクルート内で首都圏営業部長から企業内起業家として、
キャリア新規事業を立ち上げたのがきっかけで
95年にインターウォーズを設立しました。
「経営幹部人材紹介」「事業開発コンサルティング支援」
「投資ファンド」による企業の成長支援をコアとしている会社です。
今まで32のインキュベーション支援に携わり、99ショップをはじめ、
多くの企業が育ち、昨年はインキュベーション投資先が
上場を果たすことができました。
今後も、人が輝く会社を一社でも多くインキュベーションすることによって、
働くステージを創っていきたいと思っています。

■「出島」インキュベーション

インターウォーズのインキュベーションの特色として
「出島」という制度があります。
新たに事業を立ち上げる起業家や企業内の新規事業推進担当者を
インターウォーズのオフィス内に設けた専用ブースに常駐させて
支援を行う仕組みで、現在は6ブースの出島が存在しています。
個室形式のものもあれば、簡単な仕切りがあるだけのものもあり、
大小様々なインタビュールームと呼ばれるスペースは
共同で会議やイベントなどに使用しています。
同じような悩みや希望をもつ者同士が、同じフロアで交流することによって
刺激を受け合い、またより親身なアドバイスを受けることが出来ます。
みなさん、銀座にお越しの際は、ぜひ、当社に立ち寄り、
この「出島」をご覧になってください!

■「新規事業はどうすれば育つのか」

この度、かんき出版から
「『新規事業』は、どうすれば育つのか
イノベーションを生み出す新しい起業のかたち」
というタイトルで書籍を発行しました。
母体となる企業の経営資源を活用しながら、
別会社として新規事業を立ち上げる
「企業内起業家」というあり方こそが
企業にとっても個人にとっても
成長発展をしていくのだ
という考えをまとめたものです。
この本がきっかけとなって、安易に転職を繰り返してしまう
最近の風潮に歯止めがかかり、一人でも多くの人が自己実現できるような
機会が増えていけば、とても嬉しく思います。

次のブログは、もつ焼きの村林さんへ。
まだご面識は無いのですが、私はもつ焼きが大好きで
ぜひ一度食べに行きたい!と思っています。
どうぞ宜しくお願いします!

人・組織・地域をゆたかに・・・個のネットワークで

June 19th, 2007

1980年(まだ社名が日本リクルートセンターだった頃)入社の五十嵐仁です。
大塚さんご指名ありがとうございます。書店ではよくお名前を見ておりますが(本棚にも1冊・・でゴメンなさい)、お久しぶりです。
実はバトンを渡されてから、今までの9名の方のブログを拝見しました。中野さんのEX-RCRUITスタートの藤原さんの思いから始まって、みなさんの原稿を楽しく読ませてもらいました。それでは、自分のR社経験(過去)、今、そして未来について少し紙面をお借りします。

◆R歴、その後、いま
さて、私は、現在はリクルートマネジメントソリューションズとなっている人事教育事業部に入社配属(本社・札幌・大手町・大阪)その後INSへ社内転職(文系の私には、入社時営業に配属された次にショック!この時の部長が藤原さん、かなりつぶれかけていた私の自己申告の希望を聞いて研修部門へ戻してくれました)、その後リクルート人材センター(現リクルートエージェント)転籍、平成元年となった1989年に転職。その後、故郷北海道にUターンし、リクルートの代理店勤務を経て、独立、現在9年目です。道内企業や行政・病院を対象に研修トレーナー、人事コンサルティング、他にコーチング、キャリアコンサルタントの仕事もしております。

◆リクルートに入社して良かったこと(今思えば)
入社した頃は一生この会社で頑張ろうと思っていた・・・かどうかは、よく考えると定かではない。しかし、そんなこと考える暇もなく働いて・・・かつ飲んで・遊んでいたようだ。ただ、学校を出るときに公務員試験を勉強していたぐらいだから、会社を転職しようとか独立しようなどと思うような人間ではなかった。間違って道庁か札幌市役所に入っていてもそれなりにお仕事をしていただろう。今は、この仕事が天職と思える。
これはリクルートでの仕事経験や多くのマネージャー・先輩・同期・後輩、そしてト人教トレーナーやお客様との出会いによって今の仕事ができ、そして現在もそのネットワークでかなり支えられていると思う(というリクルート出身者は多いのではないでしょうか)。

◆個人と組織
自分の仕事柄かもしれないが、企業の事業における成功には、そこにいる「人」と「風土」の影響が大きいと思う。現在いろいろな業種や規模の会社をクライントにしていて、かつてのリクルート(今はどうなっているのかあまり分からないので)のマネジメントや職場風土の良い面を再現できないかと思うことも多い。組織の方針や目標達成に向けて、個人のモチベーションや意見、行動が本当に尊重されていた。元来「組織(会社)と個人(社員)どっちが大事か」という設問自体がおかしいのだろうが、役割機能としては会社の方針実現や部門の目標達成が大事で、そのために個々人の能力を最大限発揮させるというマネージャーがたくさんいた(しかし、これは他の会社にもいるだろう)。そして、それと同等またそれ以上に、メンバー個々人のことを思ってくれていた。個人としての付き合いがあり、個人を尊重するマネジメントがあった(年齢が皆近かったこともあるでしょうが)。

◆もう一つの元リクルートネットワーク〜MR会
2つ目の会社は、個人向けの講座も営業していた。わずか5名の会社であり、社長はパワフルで結構な人脈もあった人だが、会社の知名度はほとんどない。それまでリクルートのカンバンで営業していた面が大きかった私は、先ずできるところからと考え、ヤル気十分お金もある(時間が無いかもしれないが)リクルートの社員及び元社員をターゲットにした。その内、個別に会うのは大変だと思って次に考えたのが「どうせなら元リクルートのメンバーをいっぺんに集めてしまおう」ということで、親しくしていたかつての上司・先輩・同僚に声をかけた。「元リクルートの人も増えたので、皆で定期的に集まり、情報交換したり相互に協力し合ったりしませんか」。
1991年11月に、14名が集まり最初の会合が行われ、翌年2月から毎月定期的な例会を開くようになった。これが現在まで続くMR会となった。最初の頃は、参加者が2人ずつ、自分の会社や事業(独立した方も多かったのです)のプレゼンをして、協力してほしいことはもちろん、必ず自分が何か協力できることを話してもらいました。例会でR時代に直接つながりのなかった方が参加されたら、必ずその会社に訪ねて行き、自分の講座営業はそっちのけで、いろいろと情報交換をしていました。
※ここでお知らせ MR会のネット会員は無料で登録できます。現在(6月4日)登録会員1000名まで後7名です。EX-RECRUITの会員の方でまだご存知でない方は一度MR会サイトをご覧下さい。トップの一般メニューで「EX-RECRUITcom.」を紹介し、相互協力しております。MR会(http://www.mr-kai.com/2004/)

◆さいごに〜個のネットワークで「人と組織と地域をゆたかに」
先に述べたMR会やこのEX-RECRUIT以外でも元人教トレーナーの糸藤先生が始められた「真報連相」のネットワーク(http://www.ne.jp/asahi/nhc/itfj/:このネットワークは現在シンガポールやタイ、インドネシアなど海外まで展開しています「HORENSO」を世界のマネジメントの共通語にするビジョンもあり)。他にも私自身元リクルートに関係するネットワーク、またその他のネットワークで相互にサポートしています。
私の専門分野は企業教育や人事関係ですが、EX-RECRUIT会員の皆さんも、それぞれご自身の専門分野(または趣味の分野)のフォーマルまたインフォーマルに、アナログ・デジタル両面でのネットワークを持っていることでしょう。
リクルートを超える組織は、このような個(個人及び個人事業者、小企業)のネットワークにより、あるときに共通のビジョンと目標(課題)を達成させるために結集し、その目標(課題)が実現したら解消するというそんなオーガニゼーションかもしれませんね。(エッ何?「それって既にリクルートと元リクルートがそうじゃん!」確かにそう言えるかも・・・)そんなネットワークで時には旗を振り、時にはサポーターとなり、ネットワークの広がりが生成変化しながら「人と組織と地域をゆたかに」それが私のビジョンです。

バトンをもらって1ヶ月たってしまい、遅くなって(中野さん他皆さまに)恐縮です。いざ書き始めると、R社での経験やその影響はいろいろとあり、また今後の夢も・・・と終わらないので、とりあえず今回はここらあたりで。

次のバトンは、インターウォーズ社長の吉井さんへ。私の比ではなく、お忙しいことでしょうが、是非近況他(個人的関心としては「インキュベーション事業」です。可能な範囲で実例など)よろしくお願い致します。

みなさん、こんにちは!エマメイの大塚寿と申します。

May 10th, 2007

*プロフィール(INS事業部→ヤマメ養殖→MBA留学→起業)

清水さんよりバトンを受けました大塚です。恒例のプロフィールから始めさせて頂きます。
86年入社でずっとINS事業部でどぶ板営業をやっていました。
 実は内定してから同事業部ですでに営業のバイトをしておりましたので、85年の9月から仕事はしておりました。(当時は苗字を持つことが許されず、愛称は『ことぶき』でした)

 たまたま立ち寄った新宿の京王デパート地下の書店(今はなくなりましたが)で『MBA』という書籍を発見、“経営士官”というキーワードが気に入ってしまい、留学を即決、リクルートも退職してしまいました。
あまりに激務で受験勉強どころではないし、その反動で給料、インセン、GIBでも何でも飲んでしまうので、受験勉強ができて、短期間に一千万円の留学費用が作れるというだけの理由で、実家でヤマメの養殖を始めることにしたからです。

 2年ちょっとで目標を達成し渡米、そのまた2年後にMBAを取得して帰国しました。
帰国時は就職する気はなかったのですが、フジハラさんに諭されて1年ほどインターンシップをやってから起業、今日に至ります。
 社名の“エマメイ”という変な名前はヤマメのスペル(YAMAME)を逆に読んだもので、フジハラさんが名付け親です。新規のアポとりの際は3回くらいは聞きなおされます。

*オーラの営業

 本業は大手企業のオーダーメードの研修設計と実施およびコンサルティングなのですが、書籍も年間2冊くらいのペースで書いています。直近では先月福西さんのナナブックスから『オーラの営業 飛翔編』というビジネス小説が出たばかりです。
 三省堂有楽町店や旭屋銀座店では店頭に大看板が展開され、それぞれ週間ランキングで1位、2位を占めましたので、ご存の方もいらっしゃるかもしれません。

 自分の中では『ゴルゴ13』のように延々と続くシリーズにしたいのですが、とりあえず3部作で今回が離陸編に続く飛翔編です。
これが売れないと最大の山場である完結編にたどりつけないので、ご協力お願い致します。
 このシリーズは、ひとことで言うと『ドラゴン桜』の営業版で、十文字一虎という主人公が主催する営業道場「売虎道場」に各社から売れないおバカな営業マン、営業ウーマンが送りこまれ、試行錯誤しながら営業の技を身につけていくという劇画タッチのストーリーです。

 オーラの営業というのは、気合、根性といった気持ちの部分の「赤オーラ」、そしてその対極にある市場分析したり、顧客の課題に対し、そのソリューションを提案したりするようなロジカルな方法論の「青オーラ」と3つ目の「緑オーラ」から成ります。
 「赤オーラ」と「青オーラ」と極めていく過程で五感がピリピリに研ぎ澄まされ、その副作用としてうつ病を発症、営業生命を失ってしまうということで、それを防止するメンタルケアを司るのが「緑オーラ」です。

 この「赤オーラ」と「青オーラ」、そして「緑オーラ」を極めた境地が「波動のオーラ」で、光三原色のごとく透明のオーラというか、色から波動に変わるという設定です。
 
 ライバル道場には外資系の“モッキンデー”と気合と根性の“鐵掟会”があり、バトルを繰り広げます。「売虎道場」にアサヒ自動車、日本BGM、百報堂、帝都ホテルから派遣されたおバカな営業マンと営業ウーマンの成長はいかに。続きは書店にて―――。

では、次は新人時代に渋谷営業所でゼロワンだった“じんさん”ことインターフェースの五十嵐仁さんにお願い致します。

「人生の転機」まだまだこれから…?

August 4th, 2006

高祖常子さんからバトンタッチされました、元KKK・編集チームにいました清水由佳です。
EX-RECRUITを拝見すると、ほとんどの方が「はじめまして」という感じなので、自己紹介を少し。
現在、結婚した相手がフリーのカメラマンだったこともあり、二人でトライ・アングル企画という会社にしていますが、やっていることは、フリーの編集・ライターと同じです。
現在は、「就職ジャーナル」「とらばーゆ」「キャリアガイダンス」「リクルート進学ブック」などのリクルートの編集記事や、就職関連の書籍の編集、企業の社内報・女性キャリア支援のweb情報の編集やライティングをしています。『現代用語の基礎知識』では、2004年、2005年版で「現代・就職キーワード」を執筆しました。
趣味はゴルフと海外旅行。といっても、お金も時間もヒジョーに限られていますので、もっぱら「いつか行きたい旅行計画」をあれこれ立て、ゴルフ場&ゴルフ場に近い別荘地の検索をし、妄想するのが趣味になっています。

■体力に任せて突っ走っていたリクルート時代
1980年にA職でKKKの編集を始め、1年半後に盛大な送別会を開いてもらって辞めたにも関わらず、2ヵ月後には呼び戻されて、「あれ、辞めなかった?」とあちこちから聞かれつつ、86年まで編集で鍛えられました。そのとき、高祖さんご夫婦とは同じ課で、家族よりもずっと長い時間、一緒にいました。
G8の地下に立派なシャワールームができたとき、学生時代の友人に「シャンプー・リンスや、ふかふかのバスタオルもあるんだよ。これで徹夜も安心!」と自慢して、「喜ぶポイントがおかしい」と指摘されました。
今も海外に行ってもまったく時差ボケしないのは、当時から鍛えられた「徹夜」のおかげです。
そして、沖縄の大中さんも書かれていましたが、今も仕事のスケジュールを24時間で考えるクセがしみついています。

■プチリクルート時代
86年に辞めてフリーの編集・ライターになってすぐ、『就職ジャーナル』の編集をお手伝いすることに。当時は、松永真理さんが編集長になって間もなくで、編集部といっても社員スタッフは松永さんと畑中新造さんがリクルートブックの編集と兼務でいるだけ。同じくフリーで契約していた編集者とともに、4人で毎月記事を動かす日々。結局また、G8に朝から晩までいて、「あれ、また戻ってきたの?」とあちこちから聞かれたものです。
真理さんのもとで編集ができたのは、とても楽しい経験でした(京都で舞妓さん取材もできたし、編集会議と称して修善寺の超高級旅館にお泊りできたし)。何よりも、真理さんが外部ブレーンさんを熱くさせ、「真理さんのために」とみんなが集中していく様子を間近で見られて、経験できたことは、非常に大きな勉強になりました。
その後、松永さんがとらばーゆに移られてからは『とらばーゆ』の編集記事のお手伝いをしたりして、今も『就職ジャーナル』『とらばーゆ』の編集記事では、編集・ライターとして仕事をさせていただいています。

■「人生の転機」を一緒に考えていきたい
KKKでは高校生の進路選択、就職ジャーナルでは大学生の就職、とらばーゆでは転職と、人生の転機にかかわる記事作りや取材をずっとしてきました。
特に、誌上で高校生が進路探しに挑戦するとか、読者が自分を振り返って自己PRを完成させていくとか、面接や履歴書・職務経歴書のブラッシュアップをするなど、「読者とともに」将来やこれからを一緒に考える記事をよく任されるようになりました。
その延長で、GCDFのキャリアカウンセラーの資格も取得。現在、「発達と心理」に関して大学で勉強を継続しており、今後も、多くの人の人生の転機を一緒に考えていけるような仕事をしていきたいと考えています。
それが原稿を書くことなのか、直接カウンセリングをすることなのかは、まだ自分でもよくわかっていませんが・・・。自分自身の「人生の転機」も、まだこれからたくさん用意されているような気がします。

次のブログは、経営コンサルタントとしてご活躍されているエマメイの大塚寿さんにお願いします。

仕事への姿勢はリクルートから教わった、かな?

May 29th, 2006

こんにちは。
沖縄のステキな写真とともに、近況をお知らせ下さった大中咲子さんからバトンを頂きました1980年入社の高祖常子(こうそときこ)と申します。

>大中さん、私も沖縄大好きです。学生時代から沖縄の島に旅行し始め、大きな島はほぼ全部制覇しています。

■リクルート時代
保育士の資格を取って短大を卒業したのに、編集の仕事がしたくてリクルートに入社しました。

当時、出版社系の求人はほとんどが大卒男子のみ。短大卒でしかも保育科でしたから、履歴書に引っかかりをつけるために通信添削で校正技術を取得。その後、何社も訪問しましたがほとんど書類選考にもかけてもらえず、最後の頼みでリクルートの中途採用枠で応募し。確か最終面接には江副さんが並んでいらしたような気が。そして、校正者として?採用されました。

というわけで、最初は平の校正者として、その後は掲載規定のお姉さんとして、当時の広告事業部→教育機関広報部(KKK)に所属。編集の仕事がしたいと上司に直談判し、副編集長となりました。

市販誌の編集をしたかったので、移動願いを出しましたが受け入れられず、子どもができたこともあって、退社しました。(当時は夜中までの仕事が当たり前でしたので)

ちなみに、「エイビーロード」の名付け親でもあるんですよ。何ももらわなかったような気がしますが、社内放送で発表されて自分の名前を言われたのを覚えています。(名前の読み方が間違ってましたが)

■現在
リクルートの赤すぐや、ベネッセのたまひよ等のライターを経て、現在は以下、いろいろなことをしています。

●「こそだて」編集長  http://www.kosodate.co.jp/
2000年の4月15日(415=よいこの日)に夫(高祖智明)と共に「こそだて」をサイトオープン。現在月約100万PVのサイトになりました。

e78ebc51.jpg●赤ちゃんを持つママのためのフリーマガジン
「miku(ミク)」編集長 
http://www.miku-baby.jp/
1都3県の小児科や産婦人科、ベビーとママが行くスポットなどに置いて頂いているフリーマガジンです。約20万部発行しています。今年の初め、NHKの「クローズアップ現代」で、表紙のみですが「R25」などと並べて紹介されました。

●オールアバウト「妊娠・出産準備」ガイド 
http://allabout.co.jp/children/childbirth/
前任から引き継いで、2002年9月から「妊娠・出産準備」のガイドをしています。

そのほか、「なっとくおとく.com」( http://www.719019.com/)の編集長や、育児コラムの執筆、なども行っています。足立区・子育て支援専門部会特別部会員、認定子育てアドバイザー(NPO法人・日本子育てアドバイザー協会)でもあります。

■社訓のプレート
私が入社した時には、「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」(でしたっけ?)という社訓のプレートを頂きました。そのような考え方や、仕事への姿勢(実務もですが)は、リクルートから教わった気がします。

入社してから数年は、本当に忙しい会社で、夜10時に帰る人には「今日は早いね!」と声をかけるような職場でした。会社には夜中の12時過ぎまでいて、銀座で飲み、帰宅してまた翌日9時に会社に行っているという生活だったので、本当に会社にいる時間が長かったです。ということもあり、夫も当時の同僚ですが。

今となっては、あのころは本当に体力があって、元気だったな?とビックリします。

では、次回は、KKK時代によく居酒屋に一緒に行った、トライアングル企画の清水由佳さんにお願いします。

大自然の中でマッサージという極上のサービスを

April 27th, 2006

04be71c4.JPGこんにちは、沖縄西表島よりお便りします。
1997年入社の大中咲子です。
宮崎さん、バトンをありがとうございます。ゼミの後輩としてもリクルートの後輩としてもきっと私は異色なはず・・・?それだけで選ばれてしまったように思いちょっと恥ずかしいですが、こちらの生活を少しリポート致します。

私は今、西表島でマッサージのお店をしています。
リクルートからマッサージ?それも西表で?!どうしていったい・・・?
と聞かれることが多いので、その経緯も少しお話しましょう。

■リクルート時代

配属は関西HRの制作、そこで1年。その後営業に異動になり、約2年間リクルートではお世話になりました。今では「普通の会社(・・だろうか?)で働いていたなんて信じられない!」と言われるような、ゆる?い?ヒトになってしまったのですが、それでも実は今でも、一日の仕事ができる時間を24時間と換算しているところなどは明らかにリクルートにいた頃に刷り込まれたことのように思います!
制作にいた頃にOCC(大阪コピーライターズクラブ)の受賞パーティでコピーライターの児島玲子さんとお話したことが、私のキャリアを考え直す大きなきっかけになりました。もともと文章を書くのが苦手だった私は、制作に配属されて苦しみながらコピーを書いていました。きっと児島さんもそうだろうと思い「コピーを書くのって辛いことですね」と口に出したところ、「何言ってるの?そんなこと言っていたら辛いコピーしか書けないわよ。私はコピーを書き始めた日からずっと、毎日楽しくて仕方ないのよ」と返ってきたのです。
なるほど・・・そんなにこの仕事を楽しんでいる人に、私は敵うはずもない。同じ土俵の上にさえ乗れていないんだ、そうガックリくると同時に、きっと私にも「楽しくて楽しくて仕方ない!」と言える何かがあるに違いない、とはっきり思ったのです。それを見つけなければ・・・!

■ マッサージを始めてから

自分の本当に好きだといえるものの中からマッサージを選びましたが、1年間くらいはこの仕事で食べていけるのか、知的興味を持ち続け、日々を充実させられるキャリアになるのかと悩みながらのスタートでした。それでもまずは始めるしかない。アルバイトとしてアロマのサロンに勤め、業界の構造やお客様のニーズが分かってくると、どこにチャンスがあるのか、自分に何ができるのかも分かってきました。そしてラッキーなことに、私はこの仕事をとても好きだということも。
そのサロンに半年いて独立、大阪南船場で半年、兵庫県芦屋で3年半と予約制の隠れ家的なお店をしてから、もっと自然の溢れる場所に住みたくなって2004年春、西表島に移住しました。

■ 西表島での生活
9fb982f7.JPG
西表島は周囲130km、面積約300平方kmと沖縄県の中では本島の次に大きな島です。人口は2000人、もともと西表の出身なのはその3分の1、沖縄県の他の島出身が3分の1、残りの3分の1は本土からの移住者と言われています。移住してきている人もこの島で20年30年という方も多く、島の生活や経済は移住者がいて成り立っているので、他の島にはあると聞くように、移り住んで来た人がもともと住んでいた人たちに苛められる、ということはあまりなく移住者にとってはとても過ごしやすい島だと聞いたことがあります。
私も引っ越して来てもうすぐ2年。知る人の誰もいない島だったのに今は友だちも増え、有難いことに寂しいと言っている暇のないくらい公私ともに忙しい毎日です。移住組の先輩たちは自分が苦労したことを覚えているので、見ず知らずの私にもとても親切に教えてくれたり応援してくれます。本当に有難く、うれしいことです。

ここでは、当たり前のことが当たり前と言える、そんな生活だと感じることがよくあります。学歴や所属など都会では当たり前のようにその人の評価となるものを重視することが少なく、その人自身を見て判断されます。例えば家を探しているときも「勤め先、年収、それが明記できないときは親などの保証人」なんて言われもしませんでした。私が何をしたいのか、どのようにしたいのか。それと、話していて人となりを見て、大家さんに受け入れてもらえたのだと思うと、とてもうれしかった思い出があります。
また、マッサージをする、ということがこんなに喜ばれるとは思いませんでした。ある人は「島にはマッサージのお店が他にないから、きっと島の人たちの役に立つだろう、頑張りなさい」と言ってくれました。もし私がお土産屋さんやダイビングサービスのように、観光客のためだけの商売をしようとしていたら、きっと家を探すのにもっと苦労しただろうと思います。「島の人の役に立つ」ということが移住してくる人にも求められるのは、同じ共同体で生活する者としては当たり前のことでしょう。
困っていると気軽に助け合うことも多く、これも当たり前のことなんだろうけれど素敵だなと思いますが、面白いのは近所で仲が悪くて有名な人同士でも、必要なときに助け合っているのはさすが島の生活です。いくら気が合わなくても、どうしても助け合わないといけないこともあるのです。人間が少なく、自然の力が強い場所で生きていくためには…。

■ 島で唯一のマッサージ店

仕事としては、島で唯一のマッサージのお店だということ、島には診療所があるだけで病院もなく、どこか身体を悪くしても船に乗って石垣島まで通わなければならなかったこともあって、有難いことに忙しいことが多いです。観光客のお客様と島民のお客様が通年で割合としては半々くらい。夏と年末年始は観光客が多く、1日に4人も5人もお客さんがある日が多くとても忙しかったです。ひとりあたり約90分、島の素材を使ったお茶や手作りのお菓子もお出しして、ゆっくりと時間をすごしてもらっています。
また季節のよいときには、天然の砂浜にマッサージベッドを出して、波の音を聞きながらビーチでマッサージを受けられる・・というサービスもしています。人はほとんどいない静かな浜で、肌の上を優しい潮風が滑っていく・・ゆっくり暮れていく空に、ひとつふたつと星が増えていく・・このサービスがしたかったから、沖縄でお店をしたいと思ったことが移住の大きな理由でもありました。「かもめ」のOB紹介のページに載せていただいたときにまだ夢として話していたことが現実になっていて、本当にうれしいです。
去年の秋にはFOGARO VOYAGEに取材を受け、この春にはVOGUEにも載る予定です。書店で見かけられたらどうぞ手に取ってご覧になってください。

■ これからは仲間と共に…
0ce75da0.JPG
秋から冬、春にかけて島にお客様が少なくなる時期を見て、関西や東京にいらっしゃるこれまでのお客様のために出張でマッサージに行くことが年に4?5回あります。西表で初めて受けてくださってから、東京でも引き続きいらっしゃる方もあります。これは芦屋のお店を始めた頃から続けているのでもう5年になります。口コミとご紹介でお客様が増えてきて、今では10日間から2週間の日程がすべてご予約でいっぱいになるほどになりました。有難いことですが、ひとりでするにはもう限界のお客様の数になってきていると感じます。

西表のお店も広告など出さずに、口コミや島にあるお店や宿に張り紙をしてもらうだけで、シーズンにはひとりではしきれないくらいのお客様があります。HPも作ろう作ろうと思いながら、忙しくて手が回らないのと、これ以上お客様が増えるとパンクしてしまう・・という恐れがあってまだ立ち上げられずにいます。まさに所謂「職人が限界を迎えている」状態。自分が本当にどう在りたいのか、どんな価値観でどんな生活をしたいのかを、もう一度確認してよりよい状態に変えていくべきときに来ています。

西表島でも海に面して広いテラスのある、かなり素敵な場所にお店を移転しようかという話も出てきています。そこは敷地も広いのでスタッフも増やして、カフェなども併設できそうです。ひとりではできないので、誰か一緒にできる人が見つかればしようと思っています。
このブログをご覧になっている方で、もし興味を持たれた方がいらっしゃったら、ぜひご連絡くださーい!
リクルートを辞めてから7年間、技術とお客様と対するという原点を身に付けたいと集中してやってきました。一人きりでするメリットも限界も、感じられたと思います。これからは仲間と共に何かを作っていく段階に入るのかな・・・と楽しみにしています。

お次は株式会社ブライト・ウェイ高祖常子さんにお願いいたします。